考える新教育論

このブログは義務教育から高等教育などの教育について考え直すためのブログです。あくまで個人の意見です。ご了承ください。

「国語」の重要性

こんにちは。


みなさんは「国語」の勉強法と言われて、ぱっと思いつくでしょうか。


なかなか難しいと思います。


僕も含め、全国の学生・学者が苦悩するものだと思います。




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なぜ「国語」の勉強をするのか


タイトル通り、なぜ「国語」を勉強しなければいけないのでしょうか。


自分が生まれた時から知っていて、考えなくても使えるようになった言語を
改めて学習する目的はなんでしょうか。


みなさんも経験があるのではないでしょうか。


義務教育から高等教育まで、国語の長い文章を読み、
段落ごとに先生が詳しい説明をしてくれる。


それがテストとなった日には、それを暗記して解答用紙に丸写し。


さて、この過程で国語力が上がる点はあるでしょうか。


この流れで授業が行われるならば、思考力は必要ありません。



だけども、こんな疑問も生じます。


「では、どうすれば国語力を上げれるの?」


これに対して、教育者の立場の人は「読書をしなさい」「要約をしなさい」
と言います。


僕はこれはあまりに無責任な発言だなと感じます。


現在の日本の英語教育も同じような立場ではないでしょうか。


英語を聞いていれば、英語力が上がる。


確かに英語を聞いていれば、そのニュアンスから英語の力を上げる手助けにはなるでしょう。


しかし、根本的に英語を学ぶにはその基礎力が必要であって、
たかが1日1時間や2時間英語でコミュニケーション力があがるのであれば、
誰でも英語はすぐにできるようになるでしょう。



少し話がそれましたが、僕はその点が見逃されていると思います。


なにを学習するにも、その基礎力が大事なのではないでしょうか。


基礎力のつけ方を教えるのが教育者の役割、
基礎力をもとに力をつけていくのが学ぶ者の役割なのではないでしょうか。


成績が下がっているからといって学ぶものの意識の低下だとか、
授業時間が少ないだとかといった点よりも、
まずはどうしたら基礎力をよりしっかりとしたものにできるのかを考えるほうが先決ではないでしょうか。


そして、僕はその基礎力が強固なものになるには、「国語」の役割が大きいと考えています。


国語力とは、すなはち理解力であって、理解力とは、すなはち基礎力ではないでしょうか。


その基礎力をつけるためにも、「国語」の勉強は決しておろそかにしてよいものではないと思います。


そして、教育者の立場の方々も「国語」を軽く扱ってはいけないと思います。




最後までお読みいただきありがとうございました

責任は嫌われる

こんばんは。


今日のテーマは「責任」についてです。


どこの国に行っても、どんな職業についても、何歳であろうとも、
人間であれば常に付きまとう「責任」。


しかし、その絶対的なものを嫌うのもまた人間です。



では、教育現場での「責任」とはなんでしょう。


教育者の立場からすれば、生徒の進路を切り開く責任、
生徒の立場からすれば常に学び続け、教育者の努力を無駄にしないということではないでしょうか。


もっと簡単な考え方をしましょう。



教育現場でよく見られるのが次の事例です。
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A君は授業を真剣に聞き、先生の言ったことにはちゃんと従います。
しかし、なかなか成績は伸びません。
成績は伸びないけど、勉強の方法もわかりません。
そこで、A君は先生に相談してみたところ、家庭学習を多くしないとだめだと言われました。
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さて、この事例を聞くと「先生にばかり頼るな」とか「自分で何もしようとしない」とか
そういった声が聞こえそうです。


確かに、勉強の基礎は先生だけが築き上げるものではなく、
自分で固めなければならないものでしょう。


しかし、この事例をよくよく再考してほしい。
先生だけに頼るのはよくないとは僕も思います。


基礎を築きあげるための指標を立てるのはだれか。
基本的な勉強方法を教えるのはだれか。
生徒はなぜ先生を頼っているのか。


よく勉強方法を聞いても、家庭学習をしなさいという先生がいます。
ではなぜ授業をやっているのでしょうか。


全部を生徒にゆだねるのであれば、授業なんていらないでしょう。
問題を配布して、ずっと自習の時間にすることに問題があるのでしょうか。


教育者の立場は生徒をきれいに磨くことではありません。
生徒の進路を肩代わりする立場でもありません。


ただ勉強の基礎をべらべらしゃべるだけなら必要ないでしょう。


問題は基礎をつくりあげるための方法を伝授することです。
先生自身が築き上げた知識の積み上げかたを教えるのが学校の意義ではないでしょうか。


最近授業を受けていて感じたことです。
みなさんはどう考えますか?


最後までお読みいただきありがとうございました。

新教育論ってなに?

こんにちは。


ブログ説明欄にも書きましたが、このブログは「教育」ということについて簡単にかつ単純な目線で考え直してみようというものです。


あくまで個人の意見であり、これが正解だ!と定義するものではありませんのでご了承ください。


では、さっそく書かせていただきます。




まえがき


まず、「教育論」なんて書かれているから、なにやら難しいことを言ってんだなというイメージがあったのではないでしょうか。


そんなことはありません。


僕自身、まだ学生ですのでそんな大きなことを言える年齢でもなければ、成績優秀の超エリートでもありません。


なんだ学生なのか、と思われても仕方がないでしょう。


しかし、考えていただきたいのは義務教育や高等教育は誰のためなのか、ということです。


もちろん、それは生徒のためであり、そしてその親のためでもあると思います。


僕は義務教育を終えて、現在高等教育を受けていますが、


教育者の立場として立派な人だと思える人に会ったのは両手で数えられると思います。


それは、もちろん人によって尊敬に値する人という概念は違いますので、みんながみんなそういうわけではないでしょう。


しかし、僕がここで言いたい"立派な人"というのは、優しくしてくれるとかおもしろい授業をしてくれるというそんな単純なものではありません。


僕の言う"立派な人"というのは、"教育者"の立場をわかっている人のことです。


このブログでは、この"教育者"の立場について焦点を合わせて書きたいと思います。



もちろん、賛否両論あり、これが正解というものはありません。


このブログを通して「教育」について考える機会となれれば幸いです。


2015.11.15  



最後までお読みいただき、ありがとうございました。